「謝るなら、いつでもおいで」 川名 壮志 (著)
のどかな田舎で起こった、前代未聞の事件。
小学女児が同級生を殺害。
驚愕、衝撃、そんな言葉だけでは処理しきれない感情が芽生えた事が忘れれられない。
不可解過ぎて正常な思考に及ばなかったと言ってもいい。
他人の自分ですら、そんな事件だった。
本書は、それから10年が過ぎた被害者のお父さんの同僚記者が当時の自分状態と
被害者の父、兄(次男)の語りで構成されていた。
新聞社のデスクだった被害者の父は「報道」の在り方を
充分過ぎるほど理解していた。
当時の対応は、職業柄の対応。報道に携わっていない家族であれば、ありえないほどの
冷静さ判断と対応だったのだと、自分も本書で初めて知った。
会見の向き合いかたも。そして、この書籍にあたってのインタビューも
「感情的には、わからない、整理がつかない」としながらも
「伝える」仕事をしている人らしい、理路整然とも感じる語りだった。
今の社会の触法少年の処遇のあり方でいえば、あの子は自分の過去から逃げようと思えば逃げられるんです。
それは被害を受けた側からすれば、悔しいけれ、受け入れるしなかない。
そうあってほしくないな、と思うだけ。それが今の社会の合意であるし、安易な罰則化に走っても何も解決されないと思っている。
触法少年とその家族は、
これが、被害者家族としての感情を唯一明確に込められた感情だと感じた。
そうなのだ。
加害者家族も。
何より「加害者本人」が「やり直せる」という選択権が与えられる。
被害者遺族は、「やり直せる」ことなど不可能なのに対して、
加害者、加害者家族には「選択」が出来てしまうのである。
成人犯罪でも同じことが言える中で
触法少年ともなれば、なお一層、「やり直し」が可能になる。
第三の被害者
本書を読んで、自分は第三者の被害者は遺族の次男と言えると感じている。
当時、女児とお父さん、と一緒に住んでいた兄。当時中学2年生だったという。
彼は、事件当初から非常に冷静だった。
冷静だった、というより「冷静にならざる得なかった環境にあった」と言える。
大人達は彼に「環境」を整える事に尽力はしつつも
彼の精神状況を「支える」事には無頓着だった。
【しっかりした男の子】きっとそんな気持ちだったのかもしれない。
自分の整理をつけるためにも。
「誰かと話をしたかった」
彼の想い。たった、これだけのこと。
そんな単純な事。
そんなことが出来ていなかった。
決しておざなりにしていた訳ではないだろう。
けれど、その発想には大人達は至らなかった。
これ以上のケアはなかったハズなのに、
大人達は何一つここに気付く事なく、日々は過ぎ去っていた。
彼は、加害者と被害者である妹の関係性を察していた。
「警察も聞いてくれていれば、話していた。でも大人達は自分に聞く事はなかった」
という内容も語っている。
だからこそ、一人ずっと抱えていた。もがき苦しんでいた。
「家族と悲しみのタイミングは違っていた」
ここの波がやってきたのだろう。
しかし、その後も彼は自分自身で乗り越えていく。
何度も何度も答えのないものに向き合い「自分のこれから」を模索して
現段階としながらもたどり着いた想いは
諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、1回謝ってほしい。
謝るならいつでもおいで。ってそれだけ。
彼には「これからの人生」がある。
その為に。前に進むために。
「1回謝ってほしい」
それだけなのだ。
この想いは、事件や悲しみの重みに匹敵しない言葉に聞こえてしまうかもしれない。
けれども、これほどまでの日常の経験をしない自分でさえも
前に進むために「謝ってほしい」という気持ちは理解できる感情である。
そうなのだ。その後なのだ。「相手に対する感情」は。
加害者がこの先どうなるとか、どうするとか。
例え、どうなったとしても
自分は生きていかねばならない。
それが何にも変わらない現実であり、事実なのだ。
この書籍のタイトルや概要を見ると、
この次男を「寛大」や理解に苦しむような感想もあるかもしれない。
そう思う人ほど、この書籍を読んでみてほしい。
極限に人が向き合った時。
「自分が生きていく」という事実だけがこの先もある。という事に触れられるのではないかと感じる。
加害者は、成人して今、世の中に復帰している。
今、どうんな想いで生活しているのだろう。
自分の隣にいてもおかしくないような日々を彼女は生活しているのだろう。
「やり直し」をしている。
これだけが、今ある現実である。
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