読んでみた「毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」

スポンサーリンク

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記

報道がワイドナショー化した。
ドラマ化もされ視聴した。
これが実話に基づいているとは信じがたい気持ちもあった。

ワイドショー化した理由は「結婚詐欺と殺人」ではない
「結婚詐欺師」の概念が大きく崩れる衝撃映し出されたからだ。

犯人女性の容姿だ。褒められる容姿とは言い難かった。
現実は小説より奇なり。まさにこんな気持ちで
皆が「内容」先行でなく、「映像・画像」先行で走った事件だったと記憶している。

そんな彼女は如何にして…という単純な興味をもった。
その中で「裁判傍聴記録」のこの本を手にした。

著者の感想は、自分にもヒシヒシと伝わってくる、共感できるものだった。
社会における「男女平等」などと世の中は言われているが、
結局、それは表面上だ。

自分自身、見た目が優れたら…そう思う事は常々あった。

現在一般的に中年は転職に不利とは言え、
それなりのキャリアを持ってしても「容姿」は、
判断基準の一部にはなっているだろう、と想像出来る。

男女関係なく、社員時代にしても「なぜこの人は採用された?」と疑問になるほど、
仕事の質もモチベーションも不可解な人が時折、入社してくる。
ある程度在籍年数が積まれると傾向が見えてくる。
そういう人達は、上層部や人事のお好み美形なのだ(苦笑)
それを武器にすることを自分は否定しない
うらやましいけれど、個性であり、武器だ。
そこから、這い上がる人は個人的にも好きになる。
しかしながら、そこに甘んじてる人達がやたらと多い(笑)

ある50代男性デザイナーが言っていた事を思い出した。
容姿は優れていたが、仕事の能力はお世辞でも高いとは言えず
モチベーションも低いという女性への不満を語る同僚女性。
その同僚女性に
「綺麗な人は、ずっと誰かにフォローされて褒められて、生きてきたんだから
今更、君と同じレベルの質を求めても無理なので、
その子に見合った仕事をさせて、更に褒めてあげなさい」と。

殺人を犯した木嶋を擁護はしない。
けれど、木嶋は「女性」という「自分」を
この「表面上の男女平等」と「容姿」をものともせず
自分らしさ全開&全快で生きてきた女性ではある。と感じた。

自らのプロデュース能力に長けていた

裁判中、常に心動じない彼女が唯一、心揺さぶった言葉
「練炭なんていうのは田舎の人の発想」
感情あらわにしてしまったこの気持ちは、自分もわからなくもない。
彼女のどこかに劣等感があるとすれば「田舎育ち」だったではないだろうか?と。
過去は変えられない。
実際彼女がどうとらえていたかは知らないが。
少なくても自分が、そうなのだ。

都会で育った人達、田舎でも満たされながら育った人達と
自分は根本的、圧倒的に何かが違う。

その「何か」は今でも明確にはならない事も多いが、
確かにその「何か」は負の尾を引いているのかもしれないと時折思う。

それと同時に
彼女のプロデュース能力は「田舎育ち」だったからこそ培われたのではないか?
とも自分は仮定した。
田舎は井の中の蛙法律に縛られる。 現在は時代も変わり、薄れていったが
「女性の幸せは男に尽くすこと」自分の幼少期には確実にあった無音の法律だ。
女性が幸せになるには「男選び」「男に尽くす」ここに人生、全てがあるという言いかえさえ出来るほど。
娯楽も少ない場所(時代)での幸せ。
家庭を築き、子孫を育てる、そこにしか女性の幸せはないものです、と。
まるで宗教的に。当たり前の錯覚に陥ってしまう程、当時、自分の田舎でもあった。

幼少期から何事においても大人びていた木嶋は井の中の蛙法律を早々に察知し、
男性を「その気にさせる・喜ばせる」というテクニックを理解、手に入れ、磨き上げていた。
その感覚と手に入れた技を自分が憧れた煌びやかな都会でブランドを身にまとい披露している
そんな自分が何より誇らしかったのかもしれない、と。
彼女にとって田舎育ち=ブラックな下積み時代。を意味するのではなかろうか?と。

この事件は世の中の容姿偏見に対する有様が見える事件(報道)だったと。
更に容姿の優れない自分にとってもその在り方を考えさせられる書籍だった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました